全ての命に敬意を表する

人が生きていくためには
他の命が必要です

人間は動物や草木の命をいただくことで生命活動を維持しています。

私自身、生命に優劣があることはいつも疑問に思っています。
なぜ象やイルカや鯨だけが可哀想で、牛や豚や鳥はそうではないのか?
また動物は可哀想だけど、植物はそうではないのか?
それこそ人間のエゴではないのだろうか?

象が保護の対象になっている経緯

私個人的には小さい頃大好きだったクジラの肉が食べられなくなった時に、疑問に思いました。
なぜクジラだけが?
理由を調べると、不思議な現象が見えてきました。

欧米では16世紀からクジラの油を燃料として使うため、大量に採っていたそうです。
しかも油だけ採って、他は捨てていた。
対して日本では、鯨の骨や髭までも浄瑠璃の人形の部品に使うなどして、全てを活用。
そして欧米でのクジラ漁が油だけのために可哀想との理由で、IWCの決定で全ての捕鯨を中止したという流れだそうです。
何やら全てが向こうの都合だけで述べられているように感じざるを得ません。

象牙にも同じような状況が見えてきました。
GGTニュースレターNo.118によると、元々象牙は欧米人のトロフィーハンティングの戦利品だったそうです。
例えばより大きな魚を釣った方が優れていると思えるような、それと一緒で。
なのに一方で、イギリスの有名なセレブが狩猟禁止キャンペーンを開催するようになる。
クジラと似たような傾向を感じました。
つまりどちらも強者の論理というか、勝手な都合のように感じられます。

「動物が可哀想だから守ろう・・・」

そこで困るのは現地の人々です。
身の回りの危険な野生生物を管理することで利益を得てきたのに、突如それらを守ることが至上命題になり、生活がさらに困窮する。
つまり現地の人々は、象を守ることで、自分たちの生活や生命が脅かされるようになっていたのです。

 

一方の都合は、もう一方の不都合

象が可哀想だから象を守ろう。
これは私たちも心から賛成します。
でも一方で、そのために犠牲になっている人がいることも知って欲しいのです。
危険な象の隣で静かに恐れながら暮らしている人々の存在を。

命は象に限りません。
牛だって鳥だって大切な命です。
動物が可哀想だから植物を摂る人々もいます。
それ自体、私は否定する気もありません。
ただ、植物にも命があります。
だからこそ、他者の考えや文化までを否定してほしくないと思うのです。

 

全ての命に敬意を表する

私たち日本人は、その命への敬意を他の誰よりも大切にしてきました。
前述したように、鯨の骨や髭までも浄瑠璃の人形の部品に使うなどし全てを活用してきました。
魚も骨以外は綺麗に食べ、骨すらも料理にして食す文化もあります。
つまり自分たちが他の命で成り立っていることを誰よりも知り、とても大切にしてきました。

「いただきます。ごちそうさま。」

全てはこの日本語に凝縮されています。
一方に偏るのではなく全ての命に敬意を表し、また生命を大切にすることにこそ、次世代に残すべき大切な日本の文化なのではないでしょうか。