象と象牙の本当の話。

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宇都宮にクマが出たニュースを聞いて思うこと

何やらここ最近、ニュースで宇都宮にスポットライトが当たっていますね。
また今日は、宇都宮市内の小中学校94校が一斉休校になりました。

ご存じの通り、理由はクマです。

完全に生活圏の話

6月6日(土)の早朝、市北西部の長岡町でクマが目撃されたのを皮切りに、その後の動きがなかなかでした。

富士見が丘、上大曽町、オリオン通り、塙田(県立図書館前)、西川田、宮本町、簗瀬、陽南……。
完全に市街地を縦断するように南下しています。

これ完全に私の生活圏です。

しかもクマは、推定体重100kg超の成獣、同一個体とみられています。
そして今朝も複数の目撃情報があり、猟友会が捜索を再開したそうです。

クマが「可哀想」という声は、皆無だった

これらのニュースを見て、もともとひねくれた物の見方をする私の場合、1つの疑問が生まれました。

ニュースやSNSや周囲の反応を見ていると、「早く捕まえてほしい」「子どもが心配」という声ばかりですし、当然私もそう思います。
近くに、100kgを超える野生のクマがいる。
当然、なにより子どもたちが心配です。

一方で、私が見聞きした範囲では、このクマが「可哀想」という声はほとんど上がっていません。
ここに違和感を感じてしまうんです。

象は可哀想で、クマは駆除でいい?

実は少し前に、こんなブログを書きました。

ブログの中でこう書いています。
熊が人里に降りてくるのは山に食べ物がないから。
里山が失われ、人間が環境を壊した結果であり、「熊の問題も人災ではないか」と。

また、私が運営する、当サイト(ivory-truth.co.jp)でもずっと問い続けてきたことがあります。
「なぜ象やイルカだけが可哀想で、牛や豚は、さらに草木はそうではないのか。命に優劣があるのか」と。
では、クマはどうでしょうか。

象は遠い国の話だから、人ごととして感情移入できます。
しかも不思議なことに、同じ遠い国で象に農地を荒らされ、命の危険にさらされている現地の人々には、なぜかあまり寄り添わない。

でもクマは今、自分の町にいます。
すると途端に「駆除してくれ」になります。

つまり命の重さを測る基準が「距離と感情」になっていないか。
遠ければ可哀想、近ければ邪魔。
それは結局、自分たちの都合で、勝手に命を分類しているだけではないか?と。

矛盾しているけど、それが人間の正直なところだと思う

ただ、私はここで「だからクマも可哀想と思え」と言いたいわけではないんです。

目の前に危険があれば、身を守ろうとするのは当然です。
子どもを守りたいと思うのも当然です。

ただ、今回どうなるか分かりませんが、仮に「駆除」という結論に至るなら、直視しなければいけないことがあると思います。

クマが市街地に出てきたのは、山が壊れているからです。
ドングリが実らない、里山が放置されている、人と野生動物の緩衝地帯が消えた。
その結果として、100kgの熊がオリオン通りを走っているわけです。

象牙をめぐる問題も同じ構造です。
密猟が起きるのも、象が農地を荒らすのも、人間が生息地を奪い、資源を収奪し続けた結果として起きている。

どちらも、根っこは人間が作った問題なんです。

最後に

今回のクマが駆除されたとしても、構造が変わらなければ同じことはまた起きますよね。
来年も、再来年も。

里山を再生し、人と野生動物の間に適切な距離を取り戻す。
それは「クマを守るため」ではなく、「またこういう事態が起きないため」の話として。

象牙の問題でも同じことを言い続けています。
感情論で「象牙は悪だ」と断じるのではなく、現地の実態と構造を見て、正しい方向に議論を向けていく必要があるのではないでしょうか。

命の重さは、距離では変わらないんです。
ただ人間は、近くにある危険には感情的に反応してしまう生き物です。

今回の宇都宮のクマ騒動で、改めてそのことを突きつけられた気がしました。
あなたはどう思いますか?

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